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第4話 退勤後の非常階段①

last update Veröffentlichungsdatum: 20.05.2026 22:48:30

 カチリ、と。

 万年筆のキャップが閉まる硬い金属音が、耳の奥で反響を繰り返していた。

 水科凛花(みずしな・りんか)としての呼吸を整えようと、ゆっくりと肺に空気を送り込む。

 だが、冷たく管理された天野家の執務室の空気は、吸い込めば吸い込むほど、別の記憶の匂いを喉の奥へ引きずり出してきた。

 古いコピー機が吐き出す排熱。

 トナーの焦げた匂い。

 そして、誰にも言葉が届かなくなった、あの会議室の後の、乾ききったオフィスの空気。

 万年筆をデスクに置いても、指先の震えは止まらなかった。

 頭に残った橘日和(たちばな・ひより)としての記憶が、終わりのない悪夢のように、再び生々しい輪郭を結び始める。

 ◇

 会議室での糾弾が終わった後、広報部のフロアに戻るまでの廊下が、やけに長く感じられた。

 足の裏がカーペットを踏んでいる感覚が、どういうわけか薄い。自分の身体の重心がどこにあるのか分からないような、ちぐはぐな感覚だった。

「橘くん。ちょっといいか」

 自席に戻るより早く、直属の上司である課長に呼び止められた。

 パーテーションで区切られただけの、狭い面談スペース。

 パイプ椅子に腰を下ろすと、課長は大きなため息をつきながら、手元の安いボールペンをカチカチとノックし始めた。

「先ほどの会議の件だがね」

 課長は、私の顔を見なかった。彼の視線は、デスクの上に無造作に積まれた未決の書類の山に向けられている。

「……課長、あれは違います。私はただ、紗耶さんひとりの確認漏れとして処理されるのがおかしいと思って、正しい時系列を残そうと――」

「そういうのは、もういいんだよ」

 ボールペンのノック音が、ピタリと止まった。

 ようやくこちらに向けられた課長の目は、乾いていた。怒りすらない。面倒な案件を早く処理してしまいたいという、疲労と事務的な冷たさだけがそこにあった。

「君がどういうつもりで、誰を守りたくてあのチャットを打ったか。そんな個人の意図は、この際どうでもいいんだ。問題なのは、ああいう文面が残っていて、それが役員たちの目に触れてしまったという事実だけだ」

「でも、あれは前後の文脈が切り取られて……!」

「だから、それがどうしたって言うんだ」

 課長の声が、わずかに苛立ちを帯びて低くなった。

「社外に出た謝罪文と同じだよ。世間は、隠された文脈なんて読み取ってくれない。表に出た言葉がすべてだ。広報の人間なら、それくらいわかってるだろう?」

 喉の奥が、カラカラに乾ききっていた。

「君が個人的にどういうつもりだったかより、会社としては『誰がこの騒ぎの責任を被るのか』という落とし所が必要なんだ。話を複雑にしないでくれ」

 これ以上、何を言っても無駄だった。

 真実がどうかなど、誰も興味がない。会社が火の粉を払うために選んだ、いちばん手頃な責任者。それが、今の自分の立場なのだ。

 その後に呼ばれた人事部の小さな応接室でも、結論は変わらなかった。

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  • 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます   第198話 春の先まで②

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  • 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます   第197話 春の先まで①

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  • 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます   第9話 生まれた場所だけが違った③

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  • 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます   第8話 生まれた場所だけが違った②

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  • 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます   第7話 生まれた場所だけが違った①

     視界が、白く濁っていた。 ピントが合わず、輪郭のぼやけた光の染みのようなものが、ゆらゆらと揺れている。 自分の手足を動かそうとした。 だが、手足は水を含んだ綿のように重く、思うようには動かない。空中でばたばたと不規則に揺れるだけだった。「あー、あー」 言葉の代わりに口からこぼれたのは、意味にならない息と、細く情けない鳴き声だった。 顔の前で、小さな手が頼りなく揺れている。 皺だらけで、赤くて、何かを掴む力すらほとんどない手。 その小ささを見た瞬間、胸の奥に安堵が滲んだ。 生きている。 どんな奇跡かはわからないが、もう一度、やり直せるのだ。 あんなふうに、悪意のある切り

  • 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます   第10話 僕を信じるな①

     長身が視界の一部を覆う。 微かなシトラスと、冷たい夜気を思わせる匂いが、ほんの一瞬、分厚いデスクを越えて鼻先を掠めた。 天野透が、たった今書き終えられたばかりの『婚約契約書』を見下ろしている。 骨ばった、長く美しい指が、紙の縁へゆっくりと伸びた。 まだインクの乾ききっていない『水科 凛花』の文字。 ほんの数分前まで、ただ流されてここに座り、恐怖のままに押し付けられた運命をなぞるだけだった女の名前。 透の長いまつ毛が、伏せられた瞳に濃い影を落としている。 彼の指先が、インクの染みに触れる寸前で、ピタリと止まった。「……見事な覚悟だ」 低く、冷えた石に触れるような声だった。

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